2008年8月27日水曜日

会員大会開催のご案内

2008年10月4日~11日まで、高雄の本山で会員代表大会が開催されます。
大和協會は次の二つの班に分かれて参加致します。

第1班:10月3日~11日
第2班:10月7日~11日

世界各地より佛光会員が台湾高雄の総本山に集います。佛光山への理解を深める良い機会です。多数の大和会員のご参加をお待ち申し上げます。 (事務局)

2008年8月25日月曜日

第四分會活動報告


2008年4月27日(日)、下仁田道場において、25名の方が参加し、第4分會活動が行なわれました。
分会活動は、座禅と慧僧法師の講和でしたが、今回始めて参加される方が多くいましたので、自己紹介も行ないました。活動は和やかな雰囲気の中で行なうことができましたので、会員間の親睦を深めることもできたと思います。
慧僧法師より次のような話がありました。

①座禅について
 留学中に東京でサミットがあり、そのときに中曽根首相は10分間座禅をしているというのを知り、感心しました。
 座禅の効用は
  1)精神力を高める
  2)集中力を高める
  3)気持ちの切り替えが
早くなる です。

②人間佛教について
 佛教は2500年の歴史がありますが、戒律が厳しすぎると社会とのかけ離れが生じます。修行とは特別な厳しいものではなく、日常生活の中で自分をチェックすることですので、それを理解してもらうために人間佛教という言い方をしています。

③講話「蘭を植えたのは」
 『金代禅師は蘭が大好きで、たくさんの高級な蘭を栽培していました。それはそれは大事に、わが子のように蘭に愛情を注いで世話をしていました。
 ある日、禅師は外出することになり、蘭の世話を弟子に頼みました。
 弟子は師の大事な蘭なのでしっかり世話をしようとしましたが、うっかりつまづいて蘭の棚を倒してしまいました。蘭の鉢は粉々です。
 弟子は呆然として師の帰りを震えながら待ちました。金代禅師が戻るとすぐに足元に跪き、自分の過ちを懺悔しました。
「先生、蘭の鉢を台なしにしてしまいました。どんな体罰をされてもかまいません。どうか先生、慈悲を恵んでください。怒らないでください」
 金代禅師は弟子の話を聞いても怒りはしませんでした。そして何もなかったように言いました。
「私が蘭を育てていたのは一つに仏に供えるためであるし、一つは環境を美化できるからでだ。怒るために蘭を植えたのではない」
 私たちはこの世に怒るために生まれてきたのでもないし、煩悩に惑わされるために生まれてきたのではないのです。
 夫婦関係、子供の教育、友だちのつきあい、仕事の人間関係においても、もし、金代禅師の「怒るために蘭を植えたのではない」という一言を座右の銘にしていれば、お互
いの誤解、争いがなくなるでしょう。
「怒るためにこの世に生まれたのではない」
 この言葉は暗い気持ちを追い払い、心の喜び、安楽、平和が入れられている素敵な宝箱のようなものです。この宝箱を開けるのも開けないのも、あなたの心ひとつということです。』

これを読んで心に残った言葉を聞きました。
多くの方が「怒るために蘭を植えたのではない」、「怒るためにこの世に生まれたのではない」と答えました。
その他、「弟子は呆然として師の帰りを震えながら待ちました」という方もおられました。
そして、「わが子のように愛情を注いでいる蘭ということですが、わが子であったらどうなのですか」という質問もでました。
慧僧法師は、禅師は蘭の鉢が割れたのを諸行無常へと切り替える、その気持ちの切り替えが早かったとおっしゃり、また、何事にも因果関係が有り、良い縁を結ぶことが自分の幸せ、そして世界の平和にとって大切と諭されました。
<佛光世紀13号>

2008年8月19日火曜日

心定和尚様講演会

2008年6月21日(土)伊香保町のホテル天坊インペリアルホールにて、心定和尚様の講演会“金剛経が説くさとりの世界”が開催され、約230名の方々が参加されました。
以下に、講演会の内容を掲載いたします。 

国際佛光会大和協會会長、ご来場の会員の皆様、佛光山の各位法師、渋川市の議員さん、天坊社長さん、ご来賓の皆様、こんにちは。
私は伊香保に来るのが四回目で、とても喜んでおります。
 かつて、大和協會会長が群馬県議員・関係者とご一緒に佛光山総本山を訪問され、建設の打合せを行いました。私はまた何回も伊香保町役場を訪問しまして、寺院建設について打合せをしてきました。 これが完成しますと、群馬佛光山寺・伊香保温泉・水澤観音と、この地に名所が3カ所となり繁栄をもたらすと思います。

 今日、皆様にお話しするテーマは「金剛経の説く悟りの世界」です。金剛経の一番大きな意義は、自分自身の心身、体と心の理解と悟りにあります。そしてできる限り他の人にも心の自由自在を与えられるようにします。体と心が自由であることはとても大切なことです。

 人々は日常生活においてたくさんのプレッシャーがあります。血糖値・コレステロール・血圧が高いというのも、毎日のプレッシャーと関係があります。他の社会問題、例えばアメリカの大学で起きた銃の乱射事件や、最近日本で起きた通り魔事件も、初歩的なストレスのとける方法がなかったために起きたものです。

 金剛経は「応無所住而生其心」(おう・む・しょ・じゅう・じ・しょう・そ・しん)を説きます。執着が無くなると自分の真心が生まれてくるということです。そして、金剛経は、無我相・無人相・無衆生相・無寿者相の四つを説きます。

 誰でも自我が存在すると考えていますが、我相(がそう)があると、自分を保護するという執着がでてきます。例えば身体検査を行った時、体に異常があると緊張しますが、これは自我に対する愛情から生じます。そして、自分が愛し、執着することに何か変化があったり、得られなかったりすると、感情の変化を起こし、悩みが生じます。
 子どもが自分に対する愛情が満たされない時に、色々なことをおこして、親の関心を引くような行為を行うのもその一つです。

 人相(にんそう)というのは人間の個我という観念であり、個人という思いです。
 衆生相(しゅじょうそう)は前世、今世、来世から来た観念です。人は必ず前世、現世、来世があり、いつも人間として生まれ変わるとは限りません。亡くなって生まれ変わると色々な相ができて、ある時は天に生まれ、ある時は畜生に生まれます。

 昔、あるお金持ちがいて、沢山の人がお金を借りに行きました。借りたお金を返してくれる人もいますが、返してくれない人もいます。そしてそのお金持ちはお金を返してくれない人たちに対し、私に、いつお金を返してくれるかを尋ねました。ある人は来世に馬に生まれてあなたを乗せて奉仕して返します。ある人は、来世に牛として生まれて、あなたの畑で仕事をします。と言いました。またある人は、来世にあなたのお父さんに生まれます。と言いました。そうすると、お金持ちは、私にお金を返さないのに私の親になろうとするのかと怒りました。その貧しい人は、ちょっと待ってください、もし来世にあなたのお父さんになれば、私は一生懸命あなたのためにお金を稼いで、そしてそのお金を「自分のために使わないで死ぬ前に全部あなたに渡します」と言いました。皆さんこの話は笑い話のように聞こえると思いますが、こういう考え方は中国人にはよくある伝統的な考え方です。

 金剛経は我々に自我の相、人相、衆生の相という執着心を亡くすように教えます。
 自我の相がないことをいかに理解できるでしょうか。我々の命は肉体的なものと精神的なものがあります。物質の観点から見ると、固体、液体、気体に分けられ、全てのものはこの範疇に入ります。
 人間の肉体も、肉や骨などの固体や、血液や体液などの液体、息などの気体がありますが、人間が亡くなると、それらは消えていきます。牛、馬もそうです。無しから有りになり、因縁の変化で消えてしまいます。建物も木材と鉄骨・セメントの組み合わせで一つの建物ができていますが、時間が経てばもう使えなくなるか、もしくは、解体して、建て直すことになります。この地球上の物質は、因縁の変化でできて、また因縁の変化で消滅してしまいます
 もしあるものが最初からあって、いつも消えなくて実際もあるというのが実在のものです。
しかし、ある関係とか因縁とか条件の組み合わせでできたものは、必ずまたそういうような条件や因縁の変化により、消えてしまいます。この世の中の有りは仮の有りです。本当の有りではありません。

例えば水は、飲んだり、洗濯、畑の潅漑もできますが、自分で自主的に決めることはできず、因縁の変化によって変わります。水は高温になったら空気になり、冷えると氷になります。
水は自分で自主的に決めることはできません。因縁の与える条件によって変わりますので、仮の有りといいます。
 禅宗で、山を見ても山ではない、水を見ても水ではないというのがあります。山は土や木の集合体ですし、水はH2Oで水素と酸素の結合したもので、全て仮の有りです。
人間の心と意識を理解するのは難しく、実際は心も意識も仮のものです。人間の心と意識は環境によって変わります。好きな人の前では自然に笑いますし、嫌いな人の前ではニコニコできません。人間の感じることは条件によって変わります。
 伊香保で行われている佛光山の建設計画に対しても、関心を持つかどうかは色々な条件によります。また本日の講演会についても、台湾の和尚さんがどのような話をするのか分からなくても、友達が行くから私も行くという場合があるように、自分が何をしたいかを決定するのは因縁の変化によって変わります。因縁の条件によって決定すると言うこと、それを我々は仮の相といいます。
 心の意識は貯蔵機能を持っていて、話したことや行ったことを記憶して蓄えることができます。そして、記憶したことを行うことで習慣になります。それが良い記憶による習慣であれば良い影響を及ぼしますが、悪い記憶による習慣であれば今世で改めなければなりません。と言うのは、来世で影響するからです。
 
例えば、ある大金持ちですが“けちな人”と、貧乏ですが“人を助けることに熱心な人”という二人の人がいました。ある日、乞食を見た時に、お金持ちは悩みました。と言うのは、お金をあげるともったいないし、あげなかったらけちと言われます。一方、貧乏の人も悩みました。それは、お金をあげたくてもお金が無く、またお金をあげなければかわいそうと思うからでした。 この二人が同じ時期に亡くなり閻魔王のところにいきました。閻魔王は二人にまた人として生まれていいと言いました。そして、毎日人からお金をもらう人に生まれるのか、毎日人にお金をあげる人に生まれるかは「自分で選択しなさい」と言われました。
お金持ちは、毎日お金をもらえる人を選びました。お金がなくて、人の世話に熱心な人は、毎日人にお金をあげる人を選択しました。すると、閻魔王はお金持ちに対し、それでは来世はこじきに生まれなさい。そうすれば、毎日人からお金をもらえます。貧乏な人に対しては、来世はお金持ちに生まれなさい。そうすれば毎日人にあげるお金がありますと言いました。

 このように、人間が記憶したものが習慣となったものが、来世に現れるのです。同じ親から生まれた子どもの個性が違うのは、意識が親から与えられるからではなく、長期間で徐々に蓄積した前世の記憶体の影響を受けているからです。赤ちゃんが母親のお腹の中に入ったときに、それは立派な一つの肉体ですが、意識はその後徐々に蓄積してきます。人間の感じたこと、それで受けたこと等は肉体に頼らなければならず、自分で自主的に表すことができないため、仏教からみると、意識も本当のものではなく仮のものです。

 我々の体は、気体、液体、固体と意識の4つの元素が集合したものであって、みんな仮のものです。体は物質体の体と、精神体の意識の結合体です。無我相というのは、こういうような感じから分析したもの、自我に対しての悟りです。今世は見るもの全てが仮のものですが、人に対しては助けてあげなければなりません。例えばある人が県議員とか、知事になろうとした場合、その前に人を助ける熱心さがなければ知事や議員にはなれません。人間同士に生まれて、過去に結んだ縁がいいかどうかで決まります。だから現世で良い縁を結びます。

 今、金剛経では、無我相、無人相は全て仮の相なので、執着しないようにと説いています。
執着しないと我々の心は解脱することができ、自由になります。しかし、普通の人は有我相、有人相、有衆生相になってしまうので、執着してしまい、悩みが生じるのです。 好きでないことであれば、いつも心に悩みがあるのです。

 あるお年寄りが2階建てのビルを持っていました。自分は1階に住み、2階を人に貸すことにしました。家賃は多少あればよく、ただ条件は、静かにしてもらいたいことでした。ある若者がそこを借りることになりました。暫くお互い平和に過ごしましたが、ある日、若者が夜中にパーティーから帰ってきました。余りにも疲れていたので約束事を忘れてしまい、ベットに横たわったとき、靴を蹴飛ばして脱ぎました。すると、大きな音がしました。
 翌朝、そのお年寄りがドアをノックし、「どうして昨夜は非常にやかましかったのですか。私はなかなか寝ることができませんでした」と、言いました。若者は謝り、次は注意しますと言いました。
 それから暫くして、若者が酔っ払って夜中に帰ってきました。若者は余りの疲れに、ベットに倒れて靴を蹴飛ばしました。一つの靴を蹴飛ばした時に大きな音がしたので、目が覚め、もう一つの靴は静かに脱ぎました。
 翌朝、お年寄りがまたドアをノックしました。若者は先に謝り「ごめんなさい。私は一つの靴を蹴飛ばした時気がついたので、気をつけてもう一つの靴は蹴飛ばしませんでした。」と言うと、お年寄りは「一つの靴を蹴飛ばす音を聞いたから、もう一つの靴をいつ蹴飛ばすのかと、ずっと待っていて、眠れなかったですよ」と言いました。
 金剛経は、世の中の全ては因と縁の結合のものと教えます。人間の体と意識も因縁の結合です。だから自分に執着しないということは非常に良いことであり、こういう心構えを持つと、これから私達は日常で処理する方法が違ってくると思います。悩みについても、こういうことが分かれば、まあしょうがないと思うようになります。これは自分を解脱することの一つの意味です。
 金剛経の教えは自分だけが解脱するのではなく、全ての人を指導して解脱させてあげなければなりません。全ての人が災難・苦痛の無いように、慈悲の心を持たなければなりません。慈悲心で人を助け、食べ物を与え、生きがいを与え、人を幸せにします。色々な善をしても、自我に執着しません。我相、人相、衆生相、そういう執着心があったら、慈善事業をやっても悩みがあり、うまくいきません。我相、人相、衆生相があれば、傲慢な心や嫉妬心が出てきます。金剛経の教えは、全てのことに対して執着をしないことです。全て実在のものではなくて、人間は全部仮のものです。お釈迦様が教えてくれた縁を結ぶというのは、「自分がいかに偉いかという執着心を無くして下さい」と言う教えです。全ての自然界の教えるものは、因縁によって生じて因縁によって消滅します。そして、心がそこから逸れないようにして下さい。
先程話をしたように、上の人が蹴飛ばした靴の音が聞こえて、自分の心がその音によって逸れてしまうと、心に罜礙(けいげ)が出ます。そしてその罜礙がでますと心が不安になります。又、慈善活動でお金を寄付しても、お金を渡した人が“間違いなく届けてくれるかどうか“とか、この思いを持っていると、自分の心の自由自在が無くなってしまいます。
自分は実在のものでは無く、そのお金で助けられる人が実在であります。自分は実在のものと思わないで下さい。空と云うことは、執着を離れることです。
縁を結ぶというのは、非常に高度な知恵なのです。人を助けるという大きな慈悲心が生じてくるとき、いつも「応無所住而生其心」という気持をもって、執着の無い気持ちで人を助けるのは福報を得ることです。

佛法を学ぶことは 誤作動をする福と知恵、情報を思慮する心の在り方が重要です。
今日は長い間話を聞いていただきました。私は大勢の日本の方々と一緒に勉強していけることが、非常に嬉しいです。 菊地会長・副会長が熱心に招いて下さり、感謝しています。
また、会場やサービスを提供して頂いた天坊さんに感謝致します。
皆様の毎日が、喜びと幸せであることをお祈りいたします。
ありがとうございました。
                  通訳(翻訳): 国際佛光會世界総会理事 
<佛光世紀13号>

2008年8月11日月曜日

ミャンマーサイクロン災害・中国四川省義捐金お礼

ミャンマーサイクロン災害・中国四川省で発生した大地震の救援活動として、義捐金募集を呼びかけました。
会員ご友人多くの善意ある方々より1,460,000円の浄財が集まり 国際佛光会亜細亜総会本部を通じ被災地に送ることができました。
ご協力頂きました方々に本紙面をもって御礼申し上げます。
                                                                                   
                                国際佛光会日本大和協会  合掌 

2008年8月1日金曜日

2008年8月 行事予定

8月 3日 報恩會・幹部懇親 10:30~ 於伊香保

8月 5日~10日 中国大覚寺訪問

8月23日 共修禅 10:30~ 於下仁田

8月28日 第一分會活動


共修禅の活動には中国語講座等も含みます

2008年7月 行事予定

7月 6日 報恩會・理事會 10:30~ 於伊香保

7月19日 共修禅 10:30~ 於下仁田

7月26日~27日 研修会 於本栖寺


共修禅の活動には中国語講座等も含みます